昔 −むかし−

 延養亭は藩主が後楽園を訪れた時にくつろぐ場所です。延養亭からは園内の景勝が一望できます。
 延養亭の西に連なる建物は「翠庭」や能舞台です。現在の能舞台周辺の栄唱の間、墨流しの間などの原形ができています。
 築庭当時の「翠庭」は、現在の栄唱の間の約3倍の規模があり、能舞台の背後には50畳もあるような楽屋があります。当時、能は武家の式楽で、大名が身につける必須の教養の一つでしたが、とりわけ能が好きだった綱政らしい配置となっています。綱政は自分が稽古をするだけでなく、家臣の家族や領民たちを後楽園の能舞台に呼んで能を見せています。能を領民にまで公開したのは綱政だけです。
 享保17年(1732)、綱政の子継政は、城にあった能舞台の古材とあわせて能舞台を修築し、周辺の建物の規模を縮小しています。現在の能舞台周辺の建物は、この時の改修でできた基礎を踏襲しています。

絵図・延養亭付近


今 −いま−

 延養亭、栄唱の間、能舞台などは昭和20年6月29日の岡山空襲で焼失しました。
 戦後、昭和33年に能舞台、35年に延養亭、42年に栄唱の間と墨流しの間を復元しました。延養亭は築庭当時の「御茶屋御絵図」の間取りを踏襲しています。建築に当たっては、全国から優れた木材が集められ、地元岡山の工事関係者によって丹誠込めた工事がなされ、50年経つ現在も大きな狂いもなく、復元当時の姿を保っています。この一連の復元工事で、藩主たちが楽しんだ後楽園の姿や景色を見る位置がよみがえりました。
 能舞台では、地元の能楽関係者が年に何度か能の会を催しています。舞台と観客席が昔ながらの別棟になっており、自然の空気の中で能を鑑賞できる数少ない舞台となっています。

延養亭の東側

延養亭南側と栄唱の間
能舞台

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