池田家文庫に残る絵図を見ると、後楽園築庭にあたって現在の庭園の景観に直接つながるような一つのプランがあったのではなく、使いながらいろいろ工夫を凝らして徐々に園域と庭園の景観が整備されていった様子がうかがえます。
 最初は17000坪の土地に、藩主が滞在する建物とその南に広がる庭園、東には田畑が広がる簡単な庭園でした。元禄2年(1689)に帰城した綱政はすぐさまここに訪れています。
 翌元禄3年の春、参勤交代で江戸に向かう時、津田永忠に北に5200坪ほど添地するよう命じます。これにより、現在の馬場や慈眼堂のある土地が付け足されます。9月からは、延養亭付近に大規模な建物を増築しています。

慈眼堂から北を望む

 元禄4年、岡山に帰った綱政は庭を見て大変喜び、津田永忠を後楽園に呼んで褒美を渡しています。同年夏には家臣ら800人余りを招いて餅を配っています。この年を庭の一応の完成と見る意見もあります。
 その後、現在の外園に当たる部分に次々と土地が付け足されていき、元禄13年(1700)に現在の外苑館がある辺りに約860坪の土地が拡大されたことで、後楽園の外形が整いました。この敷地は現在名勝指定されている区域のうち、後楽園の庭園と東西外園をふくめた外形とほぼ同じで、この年を一応の完成とする考え方もあります。
 宝永4年(1707)、後楽園に能舞台が完成します。ここでは綱政自身が稽古をしたほか、城内の能舞台には呼べない家臣の家族や領民を後楽園に呼び、能を見せています。時には綱政自身が舞って見せることもありました。綱政がほしかった後楽園の機能が完成したのはこの時だと考える見方もあります。
 綱政の好みで作り上げられた後楽園ですが、綱政の子継政[つぐまさ]以後の藩主たちも自分の好みや藩財政の事情で庭を改変します。しかし、それらは原形をそっくり変えるというようなものではなく、元の状態を生かしながらの改変だったため、綱政が作った庭園の原形は現在の後楽園にも受け継がれています。

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