江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができました。能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは参勤交代で岡山を留守にする間は、日を決めて庭を見せています。江戸時代後期、稲荷の信仰が盛んになると、藩主在国時の初午の祭礼に領民を招き、実に3万から6万人の参拝があった年もあります。

慈眼堂脇の鳥居の奥に由加神社と稲荷宮がある

 馬場や弓場では家臣たちが日頃の武芸の研鑽ぶりを披露する機会が与えられ、藩主が観騎亭などから観覧しました。披露が終わると藩主の庭を見物して帰るというほうび付きでした。
 藩主や藩に用があって訪れるお客さまの接待も後楽園でしています。格に応じて栄唱の間や墨流しの間が会食などに使われ、庭に点在する建物にお茶やお菓子、うどんなどの軽食、酒が用意され、建物に立ち寄って休みながら庭をまわる様子も記録にあります。
 まれな例として、島津家から養子に入り、7代藩主となった池田斉敏[なりとし]の実父で薩摩藩主の島津斉興[なりおき]と祖父の斉宣[なりのぶ]が参勤交代の途中で後楽園を訪れたこともあります。この時ばかりは延養亭が接待の場として使われました。

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